科学と私たちがうまく付き合って豊かになるために【『八月の銀の雪』書評】

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tsuyoshi

工学研究科修士卒の在野研究者です。大学院では"力"に着目した細胞の実験をしていました。最近数理にも興味を持ち始めました。理科教育やサイエンスコミュニケーションの活動も積極的にやっていきたいと思っています!!

理系の大学院生のtsuyoshiです。

11/14(土)のトークイベントではスピーカーをさせていただきました。(イベントレポート2020/11/17頃公開予定)

 

今回は、エンドウさんに引き続き、伊与原新 先生著の『八月の銀の雪』(新潮社へのリンク)の書評を書いていこうと思います。

エンドウさんの書評が作品内での描写に大きく着目したものであったのに対し、自分の書評では作品内で扱われているテーマに着目して書評を書いていこうと思います。

そのため、エンドウさんの書評とはまた読み味の違った書評となると思います!

それでは、始めていきます!! (ここから文体が一気に硬くなりますが、ご了承ください(笑))

(この書評を執筆するにあたって、新潮社様より『八月の銀の雪』のゲラ(原稿)を提供して頂きました。この場を借りて厚く感謝の意を申し上げます。)

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『八月の銀の雪』について

『八月の銀の雪』の概要

本書『八月の銀の雪』は、「八月の銀の雪」「海へ還る日」「アルノーと檸檬」「玻璃を拾う」「十万年の西風」という5つの短編小説から構成されていている小説である。

短編小説の物語はそれぞれ、現代社会の中で生きづらさや悩みを抱えている人物が主人公となっている。その主人公が科学者や研究者と偶然出会い、接し、会話する中で、科学(サイエンス)の見方や考え方に触れていく。そして、それらを通して自分の抱えている悩みを見つめなおす、という構成となっている。

主人公の抱える悩みというのは、就職活動や育児、仕事の中のしがらみなど、現代人が誰でも抱きうる悩みが取り上げられている。そのため、登場人物に対して、多くの人が共感・感情移入して個人が再解釈できる(しやすい)ような設定となっているだろう。

 

自然科学を組み込んだストーリー展開

『八月の銀の雪』の5つの短編小説では、自然科学に関するトピック・現象をそれぞれ小説の中に織り込んでいる。

織り込んでいる、と言っても暗示的に描かれている訳ではなく、自然科学に関するトピック・現象は直接的に描かれて説明されている。また、その描写を通して科学者・研究者が自然現象や科学に向き合う姿を描写している。

描写された科学者・研究者の姿は、科学や研究に携わったことのある人にとっては大きく共感できるものである。さらに、科学や研究に縁のない人でも親しみや共感を覚えることができるのではないか、と思える(この描写については後で詳しく触れる)。

 

一方で、それぞれの短編小説で扱っている科学・研究に関するテーマはどれも異なる。

多少強引さはあるが端的にまとめるならば、以下のように表せると考える。

「八月の銀の雪」:科学における探求の姿勢/サイエンティスト(研究者)としての在り方

「海へ還る日」:自然・動物に対する純粋な好奇心と夢

「アルノーと檸檬」:科学の解釈の限界

「玻璃を拾う」:科学と表現(アート)

「十万年の西風」:科学と政治(その中での研究者の葛藤)

このように、科学や研究に関するテーマを包括的に扱うことで、読者はより幅広い科学・研究に触れることができるようになっている。

科学や研究に関するテーマのアウトリーチ活動は一般にサイエンスコミュニケーションと呼ばれており、その側面を本書が持っている、と言えるだろう。

 

まとめると、本書は現代人の悩みへの向き合い方や心情の変化を描いた小説という文化的側面と、小説を通したサイエンスコミュニケーションという学術的側面の2つの側面を持っているということができる。

 

「サイエンスそのもの」を伝える

科学という行為と科学への感性

ここからは、社会的意義や学術的意義の観点も踏まえながら、より深く本書での科学や研究の描写についての考察を進めていこうと思う。

本書では、自然現象や科学技術に対する思索の過程や論理、感性や向き合い方が描写されている。これらは言い換えれば、自然現象を対象とした科学という行為と、科学を前にした時の感性の描写、と言えるだろう。

これらは科学と向き合うときに、同時に存在潜在的に内包している側面に焦点を当てている。

本書では科学という行為という視点と科学に対する感性という視点を交えて描写することで、「サイエンス(科学)それ自体」を伝えようとしている、と受け取ることができる。

 

「サイエンス」を伝えるサイエンスコミュニケーション

先ほど述べたように、本書は、書籍を通したサイエンスコミュニケーションの1つとして位置づけることができる。

サイエンスコミュニケーションの定義は様々あるが、ここでは敢えて「科学や研究に関するトピックを市民に対して伝えること」というやや曖昧な定義を採用する。(これは定義の緩さから生まれる更なる議論を期待してのことだ。)

 

サイエンスコミュニケーションの取り組みは数多くなされているが、課題は山積している。

その中の課題の1つとして、科学における考え方や自然現象との向き合い方に関する、分野を超えた包括的な観点を伝えることが困難な点が挙げられる。

ここで伝えることが困難となっていることは、科学における視点の持ち方や物事の考え方(=着眼点や思考の手続き)であり、科学者としての在り方(=研究倫理)などとも言える。

 

これらを包括的に伝えることは、科学それ自体に対する共通認識(コンセンサス)を社会全体の中で構築する中で非常に重要である。そのため、科学の視点や科学者の在り方を伝えることは、科学リテラシーの醸成の観点からも、サイエンスコミュニケーションの重要な課題に位置付けられている。

本書では科学に関する描写を全て人物描写と絡めることで個別の科学トピックの描写を「人間と科学」という1つのテーマへと昇華させ、これらの点を包括的に扱うことに挑戦したのではないか、考えられる。

本書はこのようなサイエンスコミュニケーションの観点からも評価することができるだろう。

 

※もちろん、サイエンスとの向き合い方は科学者・研究者によって異なり、それが研究の多様性に繋がっている。しかしながら、研究のモチベーションの持ち方や研究に対する倫理観は一定共通した普遍的な部分があると考えられる。

例えば、自然現象に対して何らかの「愛しさ」を感じることや「不思議さ」を感じること、科学や学問に対して「嘘をつかない」という点はある程度共通しているだろう。

 

 

サイエンスを通して自己の立ち方を考える

科学を個人が再解釈することによる文化的側面

ここからは更に、科学(サイエンス)における考え方や姿勢、自然科学で得られた知見などを個人が再解釈することについて、議論を深めていこうと思う。

 

そもそも、個人が受け取った何らかの事象を再解釈することは、特別なことではない。例えば、悩みを抱えているときに、誰かの言葉や考え方を自分なりに再解釈し、悩みが軽くなったり解決したりすることは、私たちの日常生活においてもままある場面であろう。

小説という媒体、特に現代社会を扱った小説は、登場人物の置かれた状況を読者が想像しやすい。そのため、登場人物の状況を自分の状況(文脈)に置き換えて感情移入や共感する、といったことが起こりやすい。

そして、本書が示したのは、科学(サイエンス)を通した感情移入の可能性である。

 

このことは、科学が人々の文化的生活に寄与する側面があるということを示唆している。

 

これについて、中谷宇吉郎は「科学と文化」というエッセイでも、以下のように述べられている。

科学を文化向上の一要素として取り入れる場合には、広い意味での芸術の一部門として迎えた方が良いというのである。その場合科学の美を既知の他の芸術の美に類するものにしようとしないで、事実の羅列の面白さの中に美を求めるようにしなくてはならないというのである。そしてこの面白さの美に客観性を与えるためには科学の知識と科学的の考え方との正しい普及をはかれば良いので、それには自然現象に対する疑問の出し方とその追究の方法とそれで得られた知識とを報告すれば良いというのである。

引用:中谷宇吉郎, 科学と文化, 1937, リンク ; 太字部分は筆者による改変

 

この視点は、実用性が偏重して問われがちな昨今の科学への認識においても重要な視点である。

科学それ自体を文化や芸術と捉えるときに、どこにその余地があるのか、という点に着目して議論を進めていきたい。

 

人間の解釈した世界と世界の正解との間にある曖昧さ

先に出した論点に関して、なぜ科学や自然現象を通した感情移入が可能なのか、という点について考えていこうと思う。

ここでは一般の市民が感情移入することを想定し、科学者や研究者といった特に科学に親しんでいる人達を議論の対象とはしないこととする。

 

大前提として言えることは、科学で事実とされている事柄も(所詮)人間による解釈に過ぎない、ということである。

これはなぜか。

 

やや哲学的な議論になるが、私たちは私たちが認識できる範囲中でしか世界を解釈できない、ということが理由として挙げられる。

私たちは、科学という行為を通して、自然現象を理解するための探求を行ってきた。そしてその探求の結果を言葉や数字を用いてまとめ上げ、「世界」の理解を試みてきた。

つまり、科学者・研究者は科学に則って客観的に世界を理解しようとし、科学で事実とされている事柄を積み上げてきた。そしてその営みによって、確かに私たちは人類全体の知を拡大し、「世界」を理解してきた。

 

 

しかしながら、誤解を恐れずに言えば、この「世界」の理解が正しいことは誰も証明することができない。もっと厳密にいえば、人間が認識する範囲内においては限りなく合理的で正しいと思われるが、その範囲の外においては正しさが保証されない、ということだ。

 

人間は、自然現象や他の生物の行動を観察し、それに対する限りなく合理的に見える説明(解釈)を与えることは可能である。(それが科学である。)

しかし、その背後にある動物の意図を真に知ることは不可能であろう。「神」の意図が働いてたとして、「神」を認識できない人間がその意図を知ることはできない。「世界」に「正解」があるとして、それを人間の視点から伺い知ることは不可能であろう。

(科学・学問の知見を持ち出すならば、数学の世界において世界が3次元以上で構成されていることや、物理の世界において暗黒物質など電磁波で近くできない物質の存在が示唆されているものの、認識できないことも、世界の全て理解することが不可能に近いことを示している。)

 

そもそも論になるが、科学それ自体が人間が世界を理解するために作り出した、人間主体(視点)からの解釈の枠組みである、とも言える。

そして、それを記述するための言語や数式という道具も人間が発明したものであり、やはり人間の認識の限界を超えることができない。

この点において、科学で積み上げられてきたものは「世界」の「正解」を記述するものではなく、人間による世界の解釈である、ということができるだろう。

 

まとめると、科学(サイエンス)はそもそも科学・学問という人間が作った枠組みの中で、(言語や数式を用いて)人間が世界を解釈するという人間主体の営みである、ということができる。

それゆえに科学(サイエンス)による世界の解釈と、「世界」の「正解」の間には必ず曖昧さが存在する。

(「絶対」という言葉を科学者や研究者が使うことをはばかるのも、この曖昧さが理由だろう)

 

曖昧さと人間主体の解釈という行為という特徴が個人の再解釈を可能にする

科学は人間主体の解釈であり、曖昧さを有する

ここに科学を個人が再解釈するときの接点が生まれる可能性がある。

 

一旦、普段の私たち自身のことについて考えてみよう。

私たちは、自分の行動の全ての理由を考えて行動しているだろうか。そんなことはないだろう。行動の大半は「なんとなく」行われるものだ。

また、人間は視覚や聴覚を通して得た情報を自分なりに解釈することで、(意識的か無意識的かは問わず)自分の意思決定の参考にしている。

このように、私たちは普段の生活において基本的に曖昧であり、また様々な主体的な解釈を日常的に行っている

 

ここに、科学と私たち個人の間の、「曖昧さ」と「解釈」という共通点が浮かび上がる。

 

ここまでの議論を踏まえて、本書で行われたような科学(サイエンス)における考え方や姿勢、自然科学で得られた知見などを個人が再解釈することについて考えよう。

1つ例を挙げるなら、本書では他の生物の行動について得られた科学の知見を個人が再解釈する場面がある。その様子に対して、共感する読者はいるだろう。身近な例に落とし込めば、犬の気持ちや猫の気持ちを想像(=勝手に解釈)して感情移入することはままあるだろう。

この例において、人間は他の生物に対して(意識的か無意識的かは分からないが)生物的な共通性(アナロジー)を直感的に仮定している

これらの解釈や仮定が正しいかどうかは科学の「曖昧さ」ゆえに、真であるとも偽であるとも言えない個人の解釈に委ねられる。

 

つまり、科学が人間による解釈であり曖昧さを内包することによって、個人が科学を再解釈する余地が存在している、ということができる。

 

科学は政治による恣意的な解釈とは距離を取らなければならない

最後に、私たちが科学を再解釈する際に心掛けなければならない点について述べておこうと思う。

それは、個人が科学を再解釈する際の一定の恣意性には許容されうる範囲が大きいが、政治などの自己を超えた意思決定の際の恣意的な科学の再解釈とは距離を取る必要がある、ということである。

先ほどまでで述べたように、科学の曖昧さや可解釈性によって、個人による科学を通した解釈を可能にし、それは人間の精神的豊かさに寄与しうる科学の文化的側面である。

この個人による解釈は個人の思索の範囲で行われる限りにおいて自由であり、それは思想・表現の自由の中で認められるべきことである。また、学問的に明確な解釈が与えられていないという科学の曖昧さが個人による解釈の幅を拡大していることは疑いようがなく、科学の文化的側面にとって重要な役割を果たしている。

 

しかしながら、社会の中での自己を超えた意思決定においては、この科学の恣意的な解釈や転用については距離を置く必要がある。

科学を政治が恣意的に解釈し用いることが時に悲劇をもたらすということは、歴史が証明している。

歴史上最も悲惨な例を挙げるのならば、1つはナチス・ドイツによるホロコーストが挙げられる。

詳細は割愛するが、ナチス・ドイツは進化論を根拠に優生論を正当化し、その結果としてユダヤ人を大量虐殺するホロコーストが引き起こされた。

これは進化論の研究の中でも黒歴史とされ、第二次世界大戦以降、人文科学の分野で進化論を人に適用しないように距離を取る・慎重になるなど、学問の側の態度にも大きく影響を与えた。(近年は最新の注意を払いながら進化心理学などの研究が行われている。)

 

日本における例を挙げるならば、自民党の進化論を誤用した広報が挙げられる。

自民党の進化論を誤用した広報は憲法改正の訴えかける広報ではあるが、これは進化論を恣意的に誤用して解釈して文脈を転用することで、政治的に利用するということである。(これに対しては、実際に日本人間行動進化学会が抗議の声明(リンク)を出している。また、この誤用は政治以外の企業活動においても見受けられる。)

 

このような政治が恣意的に科学を解釈して利用しようとすることに対して、科学側は明確に抗議を示して距離を取る必要がある。

 

この点を論じるために、科学についてより俯瞰的な視点で述べるならば、科学は現代に生きる私たちが行う現象に対する探究行為の集積である。

そして、科学に対して探究活動を行うことは、先人たちの探究・思索の流れの中に参加することでもある。私たち自身が科学について考える前には、必ず先人たちが連綿と積み上げてきた思考・知見が存在する。

科学によって何らかの権威付けや学問的な解釈を行う際には必ずこの流れについて意識せねばならない。科学という枠組みの中によってのみ反映されることが肯定される。

先ほど挙げたナチス・ドイツや自民党の例における恣意的な科学の解釈と転用は、この科学の枠組みの外へと逸脱した科学との向き合い方であったと言えるだろう。(また、それ故の悲劇であったと言えるだろう。)

 

もちろん、工業や医療、経済や芸術などの様々な分野での科学による知見が政治や社会に活かされ、社会を豊かにしていることは疑いようがない。ただ、これらの知見を政治や社会に活かす際には、必ずそれぞれの科学(学問)の枠内で行われるべきであろう

科学の枠組みを超えた科学の恣意的な解釈に対して、科学が適切に距離を取り、また抗議していくことが、科学によって豊かな社会を築くためには不可欠である。

 

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科学と私たちがうまく付き合って豊かになるために

さて、そろそろまとめだ。

ここで、今までの議論を整理しておこう。

 

本書は、小説としての側面だけでなく、サイエンスそれ自体を伝えるというサイエンスコミュニケーションとしての側面を有している。

そして、この小説を通して、科学(サイエンス)はその成果によって私たちの社会や生活を物質的に豊かにするだけでなく、私たちの内面も豊かにする文化的な側面の可能性が示された。

この文化的側面は、科学自体が人間による解釈の産物であり、また曖昧さを常に内包していることによって支えられている。

しかしながら、時に政治や企業といった超個人的組織が、科学の枠を超えて科学が再解釈することに対しては、しっかりと適切な距離を取らなければならない

 

以上がこれまでの議論をまとめたものである。

 

これらの議論を踏まえた上で、科学とどう向き合うか、ということはもちろん個人の自由である。個人の思考の範疇において科学は自由であり、それは科学の素晴らしさの1つだ。

ただ私としては、今後、少しでも自然現象を対象とした科学という行為と、科学を前にした時の感性の描写に気を留めてもらえれば、と思う。

科学による豊かさを享受するためには、個人として、そして社会として科学とどう付き合っていくべきかを個人それぞれが考え、社会として適切な合意を形成していく必要があろう。

 

最後に、科学から精神的な豊かを享受するためにの足掛かりとして、個人的な考えを少し述べて締めとしようと思う。

科学や自然現象、人間など何かに対して「愛しい」という感情を抱くこと。

その愛しさの感情を科学から受け取ることが、豊かな精神性につながる1つの道なのではないか。

個人的には、そう思わずにはいられない。

 

話は変わりますが、2020/11/14(土)に『八月の銀の雪』のトークイベントを実施しました! イベントレポートでその様子を少し紹介していますので、そちらも見ていただければと思います!

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